ごきげんよう,読者諸賢.ボクはらーめ人間Z.ラ王真贋の使い手にしてラーメーン視点からでないとブログが書けないまともない人間だ.
ラーメーンを愛し健康を愛し,そして何よりも平和を愛するボクは,ラーメーンと睡運瞑菜350g,そして核廃絶運動のアウフヘーベンの途中のエラーで世界週末時計の時計の針が過去最大にもどるまで,つまりは世界が平和になったと断言できるまで,外でラーメンを食わない超ラーメンハンガーストライキ2と言うナンだかよくわからんラーメン断食を超えたラーメン断食をさらに超えたラーメン断食の人造人間,つまりはホムンクルスとして異世界転生していた.早くラーメーン食べたい(関連記事:参照*1、参照*2).
外でラーメン食うに食えない誓約と制約をもって異世界転生したボクは丸1年を超えて現在進行形でラーメン断食続ける底抜けの阿呆,つまりはプロのラーメン断食家,二つ名は「戦えラーメンマン」である.
さくらももこさんの追悼を受けて断つ.
先日,国民的漫画そして国民的アニメとして人気を博した「ちびまる子ちゃん」の原作者であるさくらももこさんが乳がんでお亡くなりになった.53歳だったそうである.その早すぎる死に多くの方がショックを受けたようだ.さくらももこさんの訃報が流れて以来,3日ほどボクがタイムラインをひらけばその度違う誰かのさくらももこさんの訃報を悼む声が目に止まった.
ちなみにボクはさほど「ちびまる子ちゃん」に思い入れがあるわけでもなく,ましてやさくらももこさんのエッセイも読んだことはなかったので,なんだこれ?と思う内容のツイートというか記事の表題をみてはスルーしていた.たとえばどのようなものをスルーしていたかといえば「さくらももこさん=現代の清少納言」「さくらももこさんがお亡くなりになった=平成が終わった」と言った類のものである.
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「ちびまる子ちゃん」にさしたる思い入れがなくさくらももこさんのエッセイも読んだことがないボクにはさっぱり「さくらももこさん=現代の清少納言」「さくらももこさんがお亡くなりになった=平成が終わった」ということに関してはピンとくるものがなかったのだけれど,あまりにもツイッターを立ち上げる度に「さくらももこさん=現代の清少納言」「さくらももこさんがお亡くなりになった=平成が終わった」というツイートが目にとまるものだからボクはさすがにどうして「さくらももこさん=現代の清少納言」という話になるのかが気になったので元となる記事を読んでみることにした.
高校時代は小論文の採点者から「現代の清少納言」と評されるなど、すでに独特の視点と文才を認められていた。好奇心を持ち続けた人だった。エッセーや作詞を手掛けるだけでなく、ラジオパーソナリティーを務めるなど、幅広い分野で活躍。アマチュア無線技士の資格も取得した。(引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00312580-nksports-ent)
そしてボクは上述の記事を読むことによって「さくらももこさん=現代の清少納言」というのは,高校時代のさくらももこさんの「小論文」の採点をした方がさくらももこさんの独特の視点と文才を認め「現代の清少納言」と評したということに端を発するということがわかった.
一体どんな「小論文」を書くとさくらももこさんの「小論文」を採点した方が「現代の清少納言」とさくらももこさんのことを評することになるのかはこの記事を読んでもさっぱりわからない.とりあえず素朴にクエスチョンに思うのは清少納言と「小論文」にボクは関連性を見出すことができないということである.
なぜなら清少納言さんは「論文」を書く人間ではなく女流作家,歌人で随筆「枕草子」の著者と目されていることで著名な人物だからである.独特の視点と文才というのも高度な「小論文」を評する言葉としてはたいへんに違和感があるものである.一体どういうことか?
(余談だがインターネッツでそこはかとなく探してみると,このエピソードにかんしてはさくらももこさんの自伝的漫画「ひとりずもう」(下巻)にそこはかとなくかかれているらしいのだ.そしてそのインターネッツで公開されているエピソードを読んでみたかぎり,ボクが思うのはさくらももこさんが高校時代に「現代の清少納言」と評されたものは「作文」であって「小論文」ではなさそうであるということである.)
しかし,そのさくらももこさんの「小論文」そのものを読むのはむつかしそうである.いつか御遺族の方が見つけ出して公開してくださったならボクはその「小論文」をゼヒ読んでみたいものであるが,本稿を書くにあたってはその「小論文」を見つけることはできなかったので潔くボクはそのさくらももこさんをして「現代の清少納言」といわせしめた「小論文」を見つけることを諦めた.
そのかわりボクは女流作家,歌人として著名な「清少納言」の現代版と評されたからにはさくらももこさんの書いた「歌」はさぞやすばらしかろうと思うにいたったのである.そう,さくらももこさんが書いた「歌」として誰でも知っている「歌」といえば,それこそいわんや国民的アニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌である「おどるポンポコリン」である.
https://itunes.apple.com/jp/album/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8B%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%B3/293203215?i=293203225&uo=4&at=10lnJQ
ボクは「おどるポンポコリン」の歌詞をインターネッツで探して朗読してみることにした.以降,歌詞の一番だけを書き出してみることにする(著作権的なものでうるさいことをいわれたくはないためだ).
なんでもかんでも みんな
おどりをおどっているよ
おなべの中から ボワッと
インチキおじさん 登場
いつだって わすれない
エジソンは えらい人
そんなの常識 タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ おどるポンポコリン
ピーヒャラ ピ お腹がへったよ(参照:google:おどるポンポコリン 歌詞)
いかがだろうか?
改めて「朗読」してみると「おどるポンポコリン」の歌詞はボクにはさっぱりなにをいっているのかわからなかった.さくらももこさんの脳内麻薬が分泌されすぎてしまってあっちの世界へ逝ってしまっているかのような文面である.「おどるポンポコリン」の歌詞を真面目に読んでみたボクは頭がどうにかなりそうだった.独特の視点とか文才とかいったチャチな表現では言い表せないもっと恐ろしいものの片鱗を 味わったといっても過言ではない.
もし今,眼前でなんでもかんでもみんな踊りを踊っていて,しかるのちおなべの中からボワッとインチキおじさんなるなんだかよくわからんオッサンが登場した様を想像してみてほしい.ボクはそんな世界はごめんこうむりたいものである.
「ピーヒャラ ピーヒャラ」は祭囃子で納得がいくのだが「パッパパラパ」はおそらくラッパであろうとはおもうもののなんだか「クルクルパー」的な狂気を感じるのは気のせいだろうか?「タッタタラリラ」はさっぱりわからない.「ピーヒャラ ピーヒャラ」「パッパパラパ」「タッタタラリラ」をセットにすると,そこはかとなく想起されてくるのは田舎のヤンキーの改造バイクになってしまうのはふしぎなことである.しかし,きっとおそらくちがうのだろう.もっと高尚ななにかがそこはかとなく裏側に隠れているに違いない.それがわからないのはボクが阿呆だからなだけである.
そして最後にそこはかとなく登場する「おどるポンポコリン」にいたってもなんだかよくわからないし,ポンポコリンならお腹はみたされてそうにもかかわらず「お腹がへったよ」と空腹をアッピールすることにいたってはボクにはどんな顔をしていいのかよくわからないのである.笑ったらよいのだろうか?
たしかにいわんや「おどるポンポコリン」の歌詞を読んでいると常人にはこの歌詞の意味するところを理解することが困難であることがよくわかる.一体,高校生の頃のさくらももこさんがどんな「小論文」をしたためたのかはわからんが,きっとこの「おどるポンポコリン」のような常人には理解することが困難な「小論文」を書いたことは想像に難くない.ボクはここに至って「さくらももこさん=現代の清少納言」という評価に得心がいったことは言うまでもない.
ところでボクが改めて「おどるポンポコリン」という「歌」の「歌詞」を朗読してみて思ったのは「平成」というものは「おどるポンポコリン」のようななにをいっているのかよくわからんものをなにも考えずに受け入れてしまう時代だったのではないかということである.
ふつうに考えたら,なんでもかんでもみんなおどりをおどってピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラしているわけがないのである.なんでもかんでもみんなピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラしていたら疲れてお腹がへるのは当然である.なんだかよくわからんものに疲弊するのは当然の帰結であると言えよう.
そこで「さくらももこさんがお亡くなりになった=平成が終わった」の意味をとってつけたようにボクは考えてみることにした.「平成」がなんでもかんでもみんなおどりをおどってピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラというなんだかよくわからんものを特になにも考えずに受け入れてしまうようなおバカさんの時代だったとするならば,平成の終わりとはなんでもかんでもみんなおどりをおどってピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラしている時代の終焉である.ボクらは平成の終わりとともになんでもかんでもみんなおどりをおどってピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラを卒業せねばなるまい,ということにはなるまいか?
ボクらはいつまでもなんでもかんでもみんなおどりをおどってピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラしていてはいけないのである.きちんと現実を観よう.現実を直視したならば,諸賢にもきっと意識他界ラーメンがラーメーンではないなんだかよくわからんムニャムニャであることにも気づけよう.なんだかよくわからんものが潰えた先には真実の世界,ザ・リアルワールドが待っている.
ザ・リアルワールドが真のユグドラシルとなりうるかはボクには確証を与えることはできない.しかし,なんでもかんでもみんなおどりをおどってピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ タッタタラリラな世界に比べたらディストピアでないことはたしかなのではなかろうか?
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それではそこはかとなく「さくらももこさん=現代の清少納言」「さくらももこさんがお亡くなりになった=平成が終わった」のボクなりの解釈が十二分にできたことなので,本稿はこれにておしまいである.
それではまた会おう,さらばだ諸賢!!
《アイキャッチは「おどるポンポコリン」のジャケ写.「おどるポンポコリン」がなにを歌っているものなのかを探しているとおどるポンポコリン - Wikipediaに行き着いたのだけれど「おどるポンポコリン」が「スーダラ節」にインスパイアされたらしいことがわかるくらいで歌詞の意味するところは「なにもない」のではないかという軽い絶望感を味わっているのである./本稿はお題「最近気になったニュース」によせて書きました.》