ごきげんよう,読者諸賢.ボクはらーめ人間Z.ラ王真贋の遣い手にしてラーメーン視点からでないとブログが書けないまともないヒューメンだ.
ラーメーンを愛し健康を愛し,そして何よりも平和を愛するボクは,ラーメーンと睡運瞑菜350g,そして核廃絶運動のアウフヘーベンの途中のエラーで世界週末時計の時計の針が過去最大にもどるまで,つまりは世界が令(うるわ)しく平和になったと断言できるまで,外でラーメンを食わない超ラーメンハンガーストライキ2と言うナンだかよくわからんラーメン断食を超えたラーメン断食をさらに超えたラーメン断食の人造人間,つまりはホムンクルスとして異世界転生していた.早くラーメーン食べたい.
外でラーメン食うに食えない誓約とはてなブックマークしたくてもすることができない制約をもって異世界転生したボクは丸2年を超えて現在進行形でラーメン断食続ける底抜けの阿呆,つまりはプロのラーメン断食家,二つ名は「戦えラーメンマン」である.
令和初の成人の日を受けて断つ(2020年).「おとな」になるとはどういうことかを考える.
今日は2020年1月13日の月曜日.月曜日ではあるのだけれど,ハッピーマンデー制度の成人の日の国民の祝日であるから,日本の首都東京のどこかにヘッドクオーターオフィスのチンザマシマシている企業で働くサラリーメンであるボクもオヤスミである.
というわけで今日は「成人の日」の国民の祝日であるから,まずは例によって国民の祝日について - 内閣府を確認することによってそもそも「成人の日とはなにか」を確認することをしていきたい.
「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。」
内閣府の国民の祝日についてのページには上記のように書いてあるものであった.毎回この成人の日とはなにかを調べる都度ボクは思うのだけれど「成人」と「おとな」とは必ずしも同義ではないと思うということなのである.
なぜならば「成人」とは法律によって定められた成人年齢に至ったものが皆あまねく「成人」になるのに対して「おとな」というものはある年齢に達したからといって,その年齢に達したときにその日を境に「我こそはおとななり」と突然「おとな」になることができるわけではないからである.
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そのあたりがたいへんに分かりやすかったのが,ジェンダー差別的な発言を2019年に最も行った政治家としてたいへんに不名誉なキングオブ問題発言の称号を獲得した麻生太郎副総理が2020年1月12日,福岡県直方市での成人式で来賓あいさつした上記の記事の内容だったものである.であるからキングオブ問題発言の呼び声高い麻生太郎副総理がどのような発言をされたのか,記事から引用して紹介したい.
「二十歳を境に何が違うのか。飯が食える、たばこが吸える、酒が飲めるとかなんてどうでもいい。それより、皆さんがた、もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。姓名がきちっと出て「20歳」と書かれる。それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳だ。」
ちなみに今日(2020年1月13日)現在ではまだ成人年齢が18歳に引き下げられていないものであるから,成人とは20歳にならないとなることができないものである.そしてたしかに言い方にはたいへんに問題があるとは思うわけなのだけれど成人と未成年の大きな違いの1つが成人するとそれまでは少年法によって守られていたことから守られなくなるということが端的に違っていることは事実である.法令を破れば逮捕され,その罪状いかんによっては当然ながら刑務所に服役することになり,少年院ではすまないのは当たり前である.
しかし,これはあくまで法律上,日本においては20歳を境に「成人」として扱われますよというだけの話であって,20歳という年齢を境に「おとな」になれるのかといえばそんなことはないのである.
なぜなら立派な「おとな」というものは法律に定めれられているとかいないとか関係なくやっていい物ごととやってはならない物ごとの分別がその時々の時流に沿って適切に判断することができるものだからである.ようはどんなにその人が自由に振る舞ったとしても見ず知らずの赤の他人様の自由を侵すことがないくらいやっていいこととやってはならないことの判断が自然となされている人のことなのである.当然そんなまともで素晴らしい「おとな」というものは酒を飲み過ぎて前後不詳に陥った挙句しかるのに破廉恥であったり不適切な失態を犯すことはしないものであるし,車両と名のつくものを運転した際には暴走などすることはないし,当然煽り運転などもしないものである.さらにはなにかを食す際にはラーメンなど絶対に食わないものである.そして時事刻々と変化するやるべきでないことに自然と耳を傾け自らのウチなるインナーワールドの規律を常に刷新し,昨日の常識が今日の非常識となっていようとも今日には今日の常識に素直にたおやかに柔軟に対応することができるものが「おとな」であると思うわけである.そういう意味では「おとな」とは「成人」というよりも「聖人」であるわけであるから誰でもなることができるわけではないというのはそれもまた自ずから自明であると言えよう.とりあえずボクはそんな「聖人」様にはこれまでの人生ではお目にかかったことがないものである.
というわけでどんなに法律の上で成人年齢を超えたとしてもそれでなることができるのはあくまで「成人」なわけでありそれは必ずしも「おとな」ではないわけである.当然ながら第二次性徴を終えてカラダは立派な大人になったとしても頭脳が子どもでは当然ながら大人ではないものであるし当然ながら「おとな」でもないわけである.ゆえにだいぶ遠回りをしてきたわけなのだけれど,ボクが毎年「成人の日」に違和感を覚えるのは「成人」の日が「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日のことであると定められているわけなのだけれど,これは正しくは「法の上で成人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日ではないのかということなのである.
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あえていうならばこの世界に立派な「おとな」と呼べるような聖人君子はマジ一握りというか実在しないかもしれないわけであり,実在するのはよくて阿呆,悪くてド阿呆,さらに人の道をふみはずせば外道であり,おまけに法律も破れば腐れ外道なのである.最もひどいのは全部マシの腐れ外道かつド阿呆であるわけで,そんな最低最悪の腐れ外道かつド阿呆にだけはならないように自らを戒めて少しでも「おとな」に近づくことができるように日々慢心することなく精進することを何歳になったとしても続けていきたいものである.そうすれば少なからずボクは腐れ外道かつド阿呆にだけはならずに人生を最後まで立派に生き抜くことができるものであると思うものである.
というわけで「成人の日」をボクはこれからもボク自身が多少なりとも立派な「おとな」に近づくために自らの行いを振り返り驕った振る舞いをしてはいまいかということをセルフラーメン断食チェックする日として活用していくことをしていきたいものである.上から目線で若者に成人としての立ち振る舞いを講釈できるほどこの世界には立派な聖人はいないのである.
それではまた会おう,さらばだ諸賢!!
参考.
- 性差別発言、麻生氏が2年連続ワースト 民間ネット投票:朝日新聞デジタル
- 麻生副総理がまた不適切発言 地元・福岡で「日本は一つの民族」|【西日本新聞ニュース】
- 22年度以降の「成人式」、都内11市区町村が20歳維持へ :日本経済新聞
成人の日に関して五大全国紙がどのような社説を書いていたかを読み比べすることくらいはしてみた.
なぜか毎日新聞だけは成人の日に関連した社説を書いていなかったことがたいへんに不可思議に感じたものではあったものである.
- (社説)成人の日に 社会は動く、動かせる:朝日新聞デジタル
- 成人の日 挑戦する気持ちを忘れずに : 社説 : 読売新聞オンライン
- [社説]子供産みたくない社会に未来なし :日本経済新聞
- 【主張】成人の日 あなたが新時代の主役だ - 産経ニュース
成人式恒例のトラブルの報道.
《本稿は今週のお題「二十歳」によせて書きました.はてななブログの今週のお題は「大人になるのはどんな時?」とクエスチョンしておきながらなぜか「二十歳」について書けというなんだかよくわからないことになっていたのだけれど,ボクは立派なジェントルメンであるから気にしないことにしたものである.》